自分の可能性に自信をもつこと。未来を信じること。

 大学時代、ゼミ、留学、就活などいくつかの活動の間、自信について考えることがあった。結局自信はあったほうがいいのか、ないほうがいいのか。

 この問いは、いくつかに分解して考えることができる。そもそも「いい」というのは、どんな場面やどんな目的がある時を指しているのか。今回は何かを学ぶ(成長する)とか新しい人と関わる時にする。ここはそれほど議論の必要がないはずだ。

 

 もう一つ、分解すべきなのは、自分のどこに自信を持つといいのかという点だ。あふれんばかりの自信というのは、自信過剰だし、自分の全てに自信がありますというのは、なんだか違和感がある。かといって、全然自信がありませんというのも、なよなよしているように見えて、気持ちよくない。

 

 僕は、「自分の未来とか可能性には、自信を持つべき。自分の現在とか現状には、それほど自信がなくてもいい。」という考えだ。(あくまで持論です。)

 

 僕は、自分はいつも何かが足りていないと思う。だから自分のいまには自信がない。けれど、素直に取り入れること、未来に自分がよくなっているはずだ。という点については割と自信がある。

 

 大学中に経験したことの中で、特に2回生で参加した内閣府国際青年育成交流事業と3回生で経験したオランダへの留学では、それまで持っていた自信が見事に打ち砕かれた。

 

 当時の僕は、若いというか、世の中を見事になめ腐っていた。地方の小っちゃいお山の大将になっていて、自分は力があって、なんでもうまくできると思っていた。今振り返ると、辛い思いをした大学受験の反動があったから、そう感じていたんだと思う。

 

 そんなイキリまくった状態で、東京とかオランダのその国のトップレベルの人と相対してみると、全く歯が立たなかった。自分と同い年だとは思えないくらい、考える力のある人、成熟している人、チームのために献身的に働ける人たちに、そのすごさをまざまざと見せつけられた。そしてそういう人たちは決まって謙虚だった。

 

 自分との力の差を見せられて、当時の僕の気分は最悪だった。実際、2回生の後半から、3回生の終わりくらいまでは、他の時期と比べると、暗黒時代だったという肌感覚がある。何をやってもうまくいかなかったいし、普段の大学のグループワークでさえ、自分のグループのメンバーに大きな迷惑をかけていた。自信がなくなりすぎて、全ての行動に臆病になっていたんだと思う。

 

 でも、ここが僕の大きなターミングポイントになった。人は思いっきりぶっ叩かれると強くなるものなんだろう。優秀な人がいるなら、その人のすごいところを盗んで仕舞えばいい。その人と自分の今を比べてただ一喜一憂して片付けるのは、あまりにもったいない。ちょっと成長が遅くても、じっくり自分を育てていけば、いいんじゃないかと考えるように変わった。

 

 そう思えてから、少しずつ謙虚に学んで来られたと思う。優秀な人たちにあっても動じなくなった。何より、自分にも他人にも前向きに、受け入れられるようになった。その余裕が今の自分の自信に繋がっている気がする。

 

 今でも、いつも何か足りていな自分に落胆することは多い。ミスは、傷口に塩を塗られるような痛みだ。でも、ギリギリの挑戦であればあるほど、ミスは増えるし、痛い思いもする。だからこそ、自分の未来の可能性を信じるのが大事だ。そうやってステップを踏み出し続ければ、いつか高い山の頂きにもたどり着けるはずだ。