現地語で見る景色 ローカルな世界を求めて①

 大学に入ってから、グローバルな人材になりたいと漠然と思っていた。世界で活躍できる人になりたいと考えて、外国を見て、英語を勉強した。英語はそれなりに話せるようになった。外国は数十カ国訪れた。今5年間の時間を振り返って思うのは、結局僕はグローバルなものを見たかったのではなくて、ローカルなもの、その土地、その人にしかないものを見ようとしていたということだ。そのグローバルな世界にある、ローカルな世界がどんなものなのか、いくつかの切り口で書いて見たいと思う。

 

 

 僕は、外国や日本の地方の街を旅して、その土地の人と話をするのが好きだ。いつからか、旅の目的が観光や有名な場所を回ることから、現地の人と話すこと、新しく出会った人の、自分にはなかったものの考え方捉え方を知ることに変わっていった。

 

 

 人を知るのに言葉は必須だ。現地の人と話したいと思って旅をするうちに、僕は6つの外国語を学んだ。そのうちのほとんどが、自分でもまだまだだなと思うレベルだ。もし他の人が聞いたら、ふざけていると思われるかもしれない。それでも、現地の人たちが毎日使う言葉で話したことは、僕の旅の意味を大きくしたと思う。

 

 

 ほとんどの場合、外国で最低限のコミュニケーションは英語でやりくりできる。ただ、現地の人と深く関わろうとすると、現地の言葉に軍配が上がる。そこに住む人に流れる文化、感情、価値観は、現地語でしかアクセスできない固有のものがあると思う。

 

 景色はどこにいてもGoogle検索をすれば見ることができる。僕は旅をしても特別なことがないかぎり写真をあまり撮らない。いくらいい写真を撮っても、インターネット上に自分より綺麗に撮れている写真を見つけて興ざめしてしまうからだ。グローバル化とかITの力によって、景色から得られる感動は半減してしまった。

 

 人とかそこにある文化は、そこにしかないもので、そこに行かないと確認できない。それは僕が世界を見る中で追いかけてきたものの間違いなく一つだ。

 

 特に現地語で話すことの意味を実感した旅が、2017年に訪れた南ヨーロッパのバスの旅だ。2週間で見た南ヨーロッパの景色は、国ごとに大きく違って見えた。