当たり前じゃないものたち 外国を歩く中で得た感覚

 もし僕が、外国を見て得たものは何かと聞かれたら、「当たり前に見えるものを、当たり前と受け止めない心、それに感動する気持ち」と答えるだろう。得たものはたくさんあるが、その中の大きな一つは、間違いなくこれだ。

 

 外国を歩く中で、普段気にも留めないようなものに妙に関心を持った。例えば、初めて一人で歩いたバンコクでは、真夜中町の中心部で黙々とごみを回収する人たちに、目を奪われた。それは日本でもごくごく普通にみられる光景だけど、とても華やかに見えたバンコクの街を光の当たらない場所から支える人たちに、妙に好奇心を持って見つめた。

 

留学したオランダでは、日本とは全く異なる働く姿勢を見せつけられた。いざオランダに向けて飛び立とうとした中部国際空港のカウンターで、ビザのトラブルが見つかり、日本で足止めを食らった。当時は足ががくがく震えるような動揺をしたのを今でもよく覚えている。1週間後やっと目途が立って、オランダに行けた後でも、現地の大学のスタッフとけんかのような話し合いが僕を待っていた。明らかに相手のミスなのに、ショックを受けるような言葉をいくつももらった。でも後から振り返ると、例え間違っていたとしても、自分の権利や正当性を主張するのは、オランダのオーソドックスな議論のスタイルだ。

 

 外国のディープな部分に足を踏み入れれば、よくも悪くもカルチャーショックを体験する。そういった体験を重ねることで、自分がいる環境が重層的に、立体的に浮かび上がって見えてくる。外国に行かせてもらって、僕はその実感を少しずつ得た。その度に、自分の周りにある当たり前に便利なものが、当たり前ではないように感じてきた。

 

 身の回りにあるものが当り前じゃないと思えば、それに感謝するようになる。それは決して自然発生的に存在しているものではなく、誰かがその人の一部分を削って、差し出してくれたものだ。お金とか値段とかいう価値を超えて、それは感謝に値すると思う。ありがとうという言葉に、僕はその気持ちを託す。

 

 人生の場面場面で味わうその一口を感謝して味わえたなら、人生はきっと幸せに近づくはずだ。たくさんのものや人のおかげで、おかげさまで、生きていられると思えたら、それはとてもありがたいものだと思う。