インドの歓喜、英語とグローバル化

 僕の予約していた北京経由のインド行きのチケットに、リファンドされる見通しが立った。この1週間くらい、コロナウイルスのせいで乗れなくなってしまった飛行機のお金が返ってくるか、ずっと心配だったので、安心した。後から知ったことだけど、中国で国際線の乗り換えをする場合、一度必ず中国に入国しなければいけないらしい。もし、もともと予約していた中国経由のフライトに乗れていたら、その後の予定がかなり大変になるところだった。ちょうど代わりのインド行きの別のフライトを予約していたので、もしリファンドされたら渡りに船だ。

 

 代わりに大阪からクアラルンプール 、コロンボ経由で行って、インドからはシンガポール経由で帰ってくることになった。だいぶ久しぶりの場所とか初めての場所に寄ることになった。もしかしたらその途中、友だちにも会えるかもしれない。旅先で友だちに再開できるのは、いつでも楽しみだ。

 

今日は、英語とグローバルに均質化したものについて考えてみたいと思う。日本だと、外国と言えば英語!みたいな文脈で語られていることが多い。僕もオランダに留学して、学校や友達との会話では英語を使っていた。

 

留学して毎日英語を使っていれば、英語力は勝手に伸びていく。英語が全くできなかった頃は、毎日成長していく自分の英語力にワクワクしていた。英語で話すということ自体に魅力を感じていた。

 

でもある程度話せるようになってから英語に冷めてしまった。もちろん、英語を使って、今まで見たこともないような人、全く違う生い立ちの人と話すのは楽しい。でも、英語が通じるような場所は、なんだか均質化してしまっているように感じたのだ。

 

日本で英語がかなり通用した状況を想定してみよう。日本の地方都市で若い人から高齢者まで、英会話ができたとしたら。きっと、僕らはアメリカ的なものとか、グローバルに好まれるものを必要以上に受け入れてしまうのではないか。

 

経済的にはグローバルに拡大したり、展開させていくことは歓迎すべきことだ。でも僕たちの持っている文化が均質化していくことは、味気ない。そこにしかないローカルなものまで、合理性で図られていくのは、いいことなのだろうか。

 

そこにしかないもの、その人にしかないものは美しい。旅をしていてその街にしかない魅力を発見したり、新しい人に会ってその人らしさを発見したりしたとき、感情が動く。言葉にならないような温かい気持ちになる。

 

英語を使ってグローバルに勝負すること。そしてその対局にある彦根でのどっぷりローカルにつかった暮らしをすること。両極にある2つを体験できたことは、僕の感覚を広げ、いかにグローバル化した社会の中で生きるかを考えさせてくれた。濃い大学生活だったと改めて思った。