計画された偶然性2

(前回計画された偶然性1の続き)

 焦ったとはいえ、僕にすぐに起こせる行動はなかった。僕はない頭をひねって、大学のパソコンで検索することにした。検索ワードは「大学生 国際交流」。シンプルすぎる。すると、一番上にカッコ良さそうな国際交流事業が出てきた。どうやら日本政府の内閣府が主催しているようだ。肩書きに憧れていた当時の僕に、こんなに美味しい条件が揃った話はなかった。締め切りが2週間後くらいになっていたので、急いでピカピカの履歴書を作って応募した。書類を投函すると、すぐに電話がかかっていきた。「記載事項が間違っています。」内閣府から直電があっただけで、僕はテンションマックスになっていた。幸せなおバカである。

 

 履歴書を固めまくった僕は、書類審査を通過して、霞ヶ関内閣府庁舎で面接を受けた。上京、霞ヶ関というだけで僕は天にも昇るような気持ちだった。試験内容は一般教養の筆記試験と集団、個人面接。後から振り返ると、試験は禁忌を選んでいたかもしれないし、面接では猫を2匹くらい被っていたが、結果合格だった。(同じグループだった6人のうち、2人は落ちていた。その後、合格して事業に参加したメンバーで集まるように自然となっていったので、人生紙一重というかわからないものである。)

 

 詳細はまた別の記事に譲るが、実はこの事業は非常に苦い思い出として残っている。僕が1回生の時にこの事業をちらっと教えてくれた大学の先輩に、合格の連絡をした時、「嫌な思いをたくさんするだろうけど、いい経験になるよ。がんばってきて。」というメッセージをもらった。ケツの青かった僕は、「面白くない人だなあ」と思っていたけど、今思えば、僕のことも事業のことも深く理解した上でくれたアドバイスだったと思う。その人はすぐ卒業してしまって、最後に会った時実家の花火屋さんを継ぐと言っていた。その後会うことはなかったけど、今でも会ってお礼がしたい一人である。

 

 気付いた頃から、僕は国際機関で働きたいと思うようになっていた。威勢の良いことを言っているように聞こえるけれど、特に深い考えがあったわけではない。国際的な仕事に携わりたいというのと、ビジネスと就活に物凄い嫌悪感があったので、消去法的に選んで、そう言っていた。地方の大学で特に活発に活動してわけでもない僕は、どんな選択肢があるのかすら、よくわかっていなかったけどね。

 

 1回生の頃から、海外留学をしている先輩をみて、強い憧れを持っていた。と同時に、自信満々に留学経験を語る先輩を見て、僕には難しいだろうなあと思っていた。留学は無理かもという気持ちは消えなかったけど、内閣府の事業を通して、それよりも何もできなかった自分にリベンジしたいなという気持ちの方が強くなった。また留学を通して、何を得たいかという意識もはっきりした。

 

 半年くらい留学用の英語の勉強とその他の準備をして、僕は交換留学に行けることになった。英語力は思ったよりも伸びず、留学用のテストは自分の大学の提出締め切りギリギリに受けた。しかも、その直前にバイト代をつぎ込んでアメリカに2週間旅行した。それでも全然英語は話せなかったけど、2週間英語をシャワーのように浴びて、僕は留学の条件になっていた英語のテストIELTSの最低点を突破した。(最低点はさすがにちゃんと上回っていたけど。)

 

 3回生の夏、僕の待ちに待った留学生活が始まろうとしていた。

 

 

つづく。