卒論体験記① 2018-2020

 卒業式のない卒業

 僕は、今年の3月に大学を卒業した。今年はありとあらゆるものが中止になっていて、僕の大学の卒業式も3月の頭に取りやめの通知が来た。大学で知り合った人と、集まる最後の機会がなくなってしまったことは残念だったけど、僕は思っていたよりあっさりと受け入れられた気がする。周りの人の中止に対するリアクションを見ていると、僕が卒業式に比較的無頓着だったのは不思議だった。いくつか思い当たる理由はあるけど、そもそも留学で1年間大学の卒業を伸ばしていて、ここでお別れ!みたいな同級生がほとんどいなかったこと(留年していた同級生くらい。留年する人はあまり学校にも来ないので、親しくなりようがない)、留学が終わって帰国する時も、自分にとっては大きな節目だったのに、なんのセレモニーも証明書もなく、あっさりと終わってしまって、それに慣れてしまっていたこともある。「ま、そういうこともあるよね。」と受けれたものの、卒業式も入社式もなければ、実感は湧かないものだ。加えて、入社直後から在宅勤務になっていて、大学生でも会社員でもしないような生活になっているので、一層変化を感じられないでいる。

 

振り返る節目、儀式

 今年の3月の大学卒業、4月の入社を経て、今卒業後初めての大型連休を過ごしている。切れ目なく続いていた日々が不連続になり、今までを振り返る時間ができた。ふと思い返すと、留学から帰ってきてから、かなりたくさんのことを経験したのに、今までそれをほとんど振り返ることなく、ここまで来てしまった。(もちろん留学中もたくさんのことがあったけど、変化という文脈では、留学後のボリュームはかなり大きい。)経験をたくさんしたなら、そこから学び取ったこともたくさんあるはずだ。大学生活の後半で、僕は、自分がぐっと強くなった実感がある。およそそれは、卒論という形で結実した。

 

結果の見えない卒論

 僕は自分の卒論にとても思い入れがある。自分の経験とか内側から出る思い、考えなどをじっくりと練り上げながら、たくさんの時間をかけて作った。卒論作成中にも新しい出会い、経験があって、卒論を熟成する過程で、僕も育てられた。自分の卒論に思い入れがある一方で、僕の卒論は、わかりにくい。卒論を通して、僕が追いかけたものが、目に見える形を持たないからだ。だから、わからない人には、全然わからないし、伝わらない。特に、結果だけを見たがる人には、ほとんど伝えられるものがない。役に立つ結果だけを追い求める人たちを嘆きたくなる一方で、僕にしか見えていない価値もあるんじゃないかと思い始めた。僕が、卒論のプロセスに価値を感じているなら、全てのプロセスを経験した僕にしか見えていない価値があるはずだ。この文章を通じて、3年に渡って卒論作成プロセスを振り返ってみたい。その過程で、誰かに少しでも伝わるものがあれば嬉しいし、なければそれはそれでいいと思う。卒論は、自分の好きなことを好きなように追究したので、わかってくださいというのは、なんだか厚かましい。自分に対するインプリケーションを通して、他の人にも伝わるものがあれば、幸運である。

 

②に続く。